昭和41年03月19日 朝の御理解



 昨夜、月次祭が終りましてから、その後に、福岡の麻生さんがこういうお届けを致しました。先日、こういうお夢を頂きましたと。何時もあの人は単車に乗っておりますが、単車に乗って何時もの様に、ご商売させて頂いておった。所が、その道々に沢山、そのこの辺にありますヤマシオというお漬物の野菜が、ヤマシオがそこに一固まり、ここに一固まり落ちておるという。
 それを拾わせて頂いて、勿体ない事だというので、単車に一杯、後に荷つけて、所があんまり沢山荷つけたもんだから、単車のハンドルが、こう浮いて来る訳ですね。自転車なんか乗る人はそういう体験があろうと思うけど、沢山荷を積みますとね。ハンドルがこう浮くんですよ。それでも、やっぱり、やっとかっと乗って行きよりましたら、やっぱりちょっとバウンドした時に上が浮いてから倒れた。その倒れ方が、もうファーとまるつきり、布団の上にでも倒れる様にして倒れた。そうしましたらね、ある婦人の方がやって見えてから、はあ、京染め屋さんですね。
 それは此処で私があの京染め屋さんと言うが、京呉服をやっておりますよね。だから京呉服が一杯、後に乗っておるのを私が此処で売ってあげますよち。そこで店開きをする様にしてから、もう瞬く間に売ってしまって頂いたというお夢であったというんです。皆さん分られるだろうと思うんですね。分られるでしょう。第一、ヤマシオと云う事が分らなければ、いけませんですね。
 ヤマシオと云う事は、まあ言えば、尊い修業と云う事です。今の私は椛目ではですね。もう本当に修業させて頂こうと思ったら、実に尊い修業はいくらもそこにも転がり、ここにも落ちておると云う事ですよ。例えば、ご造営ならご造営と云う事を通してからでもです。その為の修業はここにも、そこにも、しかも尊いこんなら間違いのない修業がです。もう、いくらも落ちておると云う事です。
 ですから、それを言うならば拾わんなら勿体ない位の話です。いや今椛目で修業しなければ、もうこげな勿体ない時機はないと私は思うんです。修業を皆さんお粗末にしておりやせんでしょうか。落ちておる事が分っとっても、見過ごして通っておる様な事はないでしょうか。大体修業というものはです。少しや自分にきつい。少しや自分にゃ荷が勝ち過ぎておると云う位の修業じやなかなければ修業が修業にはなりませんよ。
 例えば朝のご祈念にお参りさせて貰う。朝の修業をさせて頂くでもです。少しは、例えば眠たい。少しは毎日の事になると、疲れもするけどもです。そこを、すきっと、私はやり抜いて行くと云う事が、私は修業だとこう思うんです。自分で決める事だけだったら、どげな修業でもしますわ。それじゃ修業にならん。修業といや、本当に修業のごとく、業のごとく、まぎれのない。
 しかもそれが少しは自分にはきつい。少しは苦しい。だからこそ修業になるんです。それを今の椛目の場合です。特に御造営ならば、御造営を通してからの事になって参りますと、もうそこにもここにも一固まりづつのヤマシオの落ちとる様に拾わな勿体ない位の修業があると云う事。その修業を疎かにしておったんでは、勿体ない話じゃないですか。しかもそれがお広前中心。神様中心。神の願いを中心としての、それが修業である信心であるという時です。
 いわゆる手元が浮くごたる、ちったひけを感ずるごとあるけれども、成程転んだ事は転んだけれども、ファーと布団の上に倒れた様にフンワリ倒れたとこう云う訳だ。そしたら見てみなさい。次には、そのある婦人の方が、出て見えて、そこだけ全然場面の違う様に、ああ京染め屋さんですね。京の呉服は私が引受けて売ってあげますよといって、瞬く間に売ってしもうたと言うです。いわゆる正しく神の用を足せば、氏子の用は神が足してやると仰る働きになっておるでしょう。ありますよ。
 今椛目のご信心を頂いておる人達はです。そこにもここにもヤマシオが落ちとる様なおかげが、修業が、それを拾わずしては勿体ない。今修行しなかったら、何時するか。と言った様な修行があります。少しは自分にや荷が勝ち過ぎとる。欲と二人でと云う事がありますけれども、信心の修行ばかりは、あたしや欲と二人でなければいかんと思う、自分だけの力ではいかん。欲と二人でするからあれだけの事がそれだけの事がでけるのである。よしそれが失敗に終ってもです。
 すぐに何日掛りで売っても売れない様な例えばその商品がです。瞬く間に売れてしもうたと云う様な、おかげになっておるです。先程申しました麻生さん、今修行しなきやする時やあなかばい。ちいたあ、手元が浮くくらいな。自分の事ばあかり考えといてから、手元の間しっかり、手元のとこだけは、自分でこうでける自信たっぷりの事だけではなくて、ちいたあ自信のない、倒れるかもしれん。
 倒れるかもしれんけれどもです。そしてほんなら本当に手元が浮いて倒れるかもしれん。それでもそこが信心の稽古なんです。そこが自分が本当の力を頂くと、その力がどう云う事になっておるかというと。その婦人が、さあ、それを自分の力で売ると云う事になったら大変な事なのだけれども、瞬く間に売ってしもうて貰ったというおかげがある様なもの。どうぞ一つ、自分の手元が浮く位の修行を、今その修業を、本気でさして頂こうという求める心があるなら。
 今の椛目には、それこそ神様に喜んで頂けれるヤマシオが、そこにもここにも落ちておるという、拾わにや勿体ない様な修行があると云う事。そこん所の修行をさせて頂いて、あの時、自分が力を受けたというならば。力を徳というなら、徳を受けたんじやろうと言う位なです、手元が浮く位な、倒れてもかんまんと云う位な、思いでの修行を一つ皆さん、なさっちやどうでしょうか。なさなければ、実を言うたら惜しいです。
   どうぞ。